1970年代には、次第にディスコなど自由な踊りに若者の指向が流れ、社交ダンス教室はだんだんとインターナショナルスタイルの教習に特化してゆく。
インターナショナルスタイル愛好者は、戦後すぐから続けている中高齢者(当時)がほとんどになってきていましたが、映画「Shall we ダンス?」(1996年)のヒットなどをきっかけに若者にもスポーツ的な一面も見直されました。

1939年第二次世界大戦が始まるとダンスホールの閉鎖が相次ぎ、1945年終戦後も食べるのに一生懸命の一般の日本人にはダンスホールは無縁の存在でした。
一般庶民に社交ダンスが広まったのは、戦後になってからで、第二次世界大戦後は進駐軍向けにダンスホールが多数開かれました。
また、若い男女の出会いの場としてダンスパーティーが流行し、ジルバやマンボなどのアメリカンスタイルダンスが流行。
舶来のダンスに満足しない若者の間からは、ハマジルやカワジルと言った和製ダンスも生まれました。
また、これらアメリカンスタイルダンスの教習を併設する形で、インターナショナルスタイルの教室が増加。

近代日本でも欧米に習い、鹿鳴館時代に上流階級の間に社交ダンスが外交政策上の必要性から導入されました。
鹿鳴館には、カドリーユやウィンナワルツなどの、ウィーンの社交界スタイルのダンスが輸入。
日本で、富裕層を中心に欧米流の社交ダンスが行われるようになるのは、1918年(大正7年)鶴見の花月園にダンスホールが開設されて以降です。
目賀田綱美により、フランスのサロンスタイルのアルゼンチンタンゴも、日本に紹介されています。

民衆の間では、新しい音楽が生まれるとともに新しい踊りも踊られる様になります。
ほとんどが小さな流行で消えてゆきますが。
19世紀では、ブルースやタンゴ (アルゼンチンタンゴ)が広く普及します。
20世紀前半になって、ジャズなどの北米生まれの新しい音楽の流行によりフォックストロットやジルバ等が、ラテンアメリカン音楽の流行でスクエアルンバ (音楽:ソン)やマンボやチャチャチャなどの新しいダンスが世界に広まりました。

20世紀には、カッスル夫妻によって、これまでの爪先だけで踊るスタイルから、ヒールから歩く新しいスタイルが確立し、さらに優雅さが増します。
このスタイルの流れから、イギリスのおいて競技ダンスが体系化され、分化しました。

民衆から遅れる形で、ヨーロッパ諸国の宮廷の舞踏会でも、若者を中心にワルツが人気となりました。
しかし、男女が抱擁するこのダンスは、年配者や宗教関係者からは強い反発を受け、何度か禁止にもされました。
やがて、大陸では、18世紀には、それまでの宮廷舞踊に混じって典礼儀式などの機会に取り入れられてゆき、上品化されてゆきます。
イギリスでは、19世紀の、ワルツ好きのヴィクトリア女王時代になるまで偏見が続きました。

ホールドをしないで踊るラウンドダンスが16世紀のエリザベス1世の頃まで続きました。
その後ラ・ボルタと呼ばれる体をコンタクトして踊るカップルダンスが登場しました。
18世紀後半、ウィンナワルツで一対の男女が向かい合ったクロースホールドで踊るようになって現在の形になりました。この時をもって、社交ダンスの誕生とされています。

最初に誕生した社交ダンスは、ワルツ (ウィンナワルツ)でした。
ワルツのルーツはヨーロッパの民衆の中で踊られていたダンスだと言われています。
プロヴァンス地方で踊られていたヴォルトというダンスが始まりだという説と、南ドイツからオーストリアにかけての民族舞踊レントラーというがルーツだという2つの説があります。
12世紀ごろから徐々に王侯貴族たちを魅了し、ルネサンスのころヨーロッパ各地で流行しました。


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